旅行二日目

2020年3月30日月曜日旅行二日目

→「 」は私たち三人の誰かの発言です。

ガイドの発言は「 」を外しています。

昨日とうってかわって良いお天気です。

ガイドの方と道の駅で待ち合わせて自動車です。

 

地元の人間の雇用があるわけではないので、農業や漁業の人は困っている。

保証はオーナーだけなので、従業員には補償がない、などの言葉を聞いてとても悲しい気持ちになりました。

相馬太田神社の前を通りました。

小高の町中に柳美里さんが住んでいてカフェをされているという話を伺いました。

津波は常磐線のところまできたそうです。

高校は500人学生がいるけど50人が地元で450人は原町から通っているそうです。

この辺は若い人がいるだけでうれしいとのこと。

学校はほとんどが閉校になる。

住民は自宅に放射能がなくなっても帰ってこれない。

除染は宅地や庭の中をするが、宅地から10M位で山があって、そこからまた放射能がやってくる。

山の除染は技術的に難しく、出来たとしてもお金がかかる。

農家は家の前に耕作地があるのでそこからも放射能がやってくる。

結局ここに帰るということは「放射能と共存するそいうことを意味する」

除染の目標値は今までの基準の20倍、年間20ミリシーベルトです。

 

浪江

 

ここの右が浪江の役場です。浪江には原発のお金がいっぱい降りている、秘密のお金。

人口は2万数千人、原発事故の前に自動車を拡幅するために家は新しいので傷んでないです。道路沿いのお店はラーメン屋、とんかつ屋。居酒屋など、原発で働く人たちが行きます。

3年以上がすぎて1000人くらいが帰還しました。この辺りは夢のマイホームの住宅地でした。空地は解体されたところです。右の家は人が住んでいます。おばあさんが住んでいて、息子さんが帰ってきています。

ここに住んでいる知人の家の線量が高いのは地震で屋根が壊れて、そこに放射能が入ったので線量が高いのです。

でも誰も責任をとらない。

→「無主物とか言われて責任はとらない」

去年まで役場に言うと無料で解体してくれました。

マンションは復活しました。今住宅難です。ここの銀行だけやってますね。富岡にはアパートがいっぱいできています。今毎日4000人が原発で働いています。現場に近い方が良いわけだから。ここは警察以外やっていません。解除になってみんなこっちから通うようになった。

密かに寄付もあり立派な市役所、横須賀市役所より立派です。

 

ここのセブンイレブンは原発に一番近いです。

ここの塀はいわゆる「仮置き場です」ここはほとんど空になっています。

 

ここ浪江消防署です。ここのイオンは朝6時からやっています。

原発労働者がお弁当を買うのです。

ホテルもたくさんできて、公共事業の入札をする人が泊まります。

避難解除されたのは二割の海側です。まもなく浪江小学校です。子供の数はものすごく少ないです。これは土木関係のお金ですね。今は春休み。こちらは復興住宅です。

 

学校を眺めます。浪江には小学校がいくつかあってそれが統合されました。

 

ところが生徒の数は小学校が16人、中学生は2人、先生の方が生徒より多いんです。箱モノはお金でなんとかなるんです。でも人間はどうしようもない。

名前としては何とか小学校があるけど子供はいない。

飯館も遠くから、スクールバスで一時間かけて通わせる。いろんなものが無料です。

 

あちらでごみを燃やしています。

町中で燃やすと目立つわけです。

なので中間貯蔵施設に入れています。予算は300憶くらいですね。

 

左側から津波がさかのぼって来たんです。

左が第一原発の排気塔です。

請戸の浜がこちらです。

家がたくさんありました。

左にあるところに松の苗木が植えてあって防災林を作るんです。そうとう大きな工事になります。

 

請戸の浜

 

ここのお墓が地震でまず倒れて、津波で浮いて捜索の時に動かしたんです。

そのままになっています。

地震と津波で迷ったん避難を迷ってんですが、原発が爆発して戻れなくなるなんて思わないから、みんな避難したんです。

それから入って良いと言われるまでの時間、、、。

遺体が見つかった時は腐乱しているわけですね。ウジ虫が湧いていたり。

二階の部分から餓死した方々のご遺体が見つかりました。みんな避難しているから、助けが来ないんですね。

この墓地は6年くらい誰も入れなかったんです。魂を抜いて、新しい墓地に魂を入れたんです。

ここは宗教的にはがれきなんですね。

お墓は所有者全員の合意がないと手を付けられないんですね。

 

いわゆる堤防を作っているんですね。ここが町でした。ここを左に曲がるところがメインストリートでした。

→「港はやっているんですね」

こちらの漁業は沿岸で漁をするというものです。

津波の時は船に乗って外に出て船を守るんです。

ここは漁港が壊れてしばらくほかの港においていたんです。

東京電力は漁民に対しては非常に優しくて8割まで補償する。

9年も東京電力の賠償金。

福島県からとった魚は買いたたかれる。

次に汚染水を流すなんていっている、40年から50年かかる。また補償に頼るしかない、従業員はそれでは食べていけない。補償金は船主に入っている。かといってやめるにやめられない。事故前は原発を増やすたびに賠償金が入る、船一艘買えるお金。

請戸漁港は原発から6キロなので本当は漁が出来ないので10キロ以上のところに出て漁をする。

 

 

あれが阿武隈山地、本当に除染と思ったらあれも除染しなければいけない。

→「千恵子が見たら悲しむでしょうね」

 

→「仮置き場は警戒が厳重ですね」

 

ガイガーカウンターがものすごい数値でなり始める。

 

小学校が体育館なんですけど下から二枚目までは津波が来たところです。

右から一年生、二年生の教室。あれがエレベーターです。

このオブジェは何千万と係ると思う。

教室から体育館まで濡れないで行けるんです。

こっちが正面玄関です。パネルがはってあります。

早い話が原発のお金で建てたという事ですね。

 

→「避難にどのくらいかかったんですかね」

 

二キロあるので40分くらいですね。

子供たちは田んぼ道を通って豪族の墓があるといわれる大平山に避難。

教師が後ろを見たら船が津波で浮いて大変なことになっていた。

 

慰霊碑の裏には原発事故の事が記されています。

 

芝生には「イノシシの糞に注意」の看板。たくさんありました。

 

→「そこまで水来たんですか?」

そう、あの低くなった裏側に原発が並んでいます。

 

当時近くで泳いだ人によると温かかったそうです。

温排水が来ているくらいだから、放射能も来ている。

請戸の町があって、漁協があって、田んぼでした。

ここ橋を渡ってここ入り江、今堤防工事をしています。

川こっちに流れていますので引き津波の時ですね。

慰霊碑があります。

→「拝んで行きましょう」

 

今年初めて雪が降ったんですよ。

→「そんな寒い日に私たち来たんですね」

 

慰霊碑の碑文(碑は縦書き)

 

 

 平成二十三(西暦2011)年三月十一日午後二時四十六分、福島・宮城・岩手を中心に

最大震度七の地震が発生した。 この地震により家屋は倒壊し、道路は寸断された 。その約四十分後に浪江町沿岸に津波の第一波が到達した。 第二波が襲来した後、さらに高さ15メートルを超す大津波が町を襲った。住民にはこれまで大津波被災の記憶はなく、避難が遅れ大津波に驚愕し、請戸・中浜・両竹・南棚塩の集落はすべてのみ込まれた。

 翌十二日には東京電力福島第一原子力発電所の事故により、住民百八十二名の尊い命が失わ

れた。 私達は、災害は再び必ずやってくることを忘れてはならない。

 ここは太古の昔から人が住み、青い海と白い砂浜を眺望できる所である。この地に、犠牲者の御霊を慰めるとともに、先人が愛した

豊穣の大地と海を慈しみ、浪江町の復興を願い、この碑を建立する。

 平成二十九年三月十一日 建立者 浪江町

 

 二つの球について

 この碑の両側に配置した二つの球は、農民

に恵みを与える太陽と、漁民の指針となる月を

象り、平安で幸福な生活を表現した。

 

 

原発事故の後全国に避難したんですよ。

この辺は特殊な道路だったんですよ。

バイク駄目、自転車駄目、オープンカー駄目、24時間警察官がパトロールしていました。

それがオリンピックで解除された。

東京電力は堤の土地に原発を建てた。大量の冷却水を上にあげるのにお金がかかるというので削ってさげた。

ここで働く人たちはかなり被ばくしている。

ここは非常避難区域を解除されてないんですよ。

双葉駅の周りだけ解除されている。

 

6号線に影響しないように放射性廃棄物の置き場があるんです。

まわりの畑や田んぼに巨大な露天掘りの穴を掘って埋めている、毎日2000台のトラックがここに運んでくる。

 

大熊町

 

ここから大熊町です。

本当は入ったはいけないのですが、ここが正式な入り口なんですが閉まっています。

ここらの駅に至る道も非常に線量が高い。

今4マイクロシーベルトくらいです。年間20ミリシーベルトだから、、、。

→「帰って来いよ。じゃなくて帰って来るなですよね」

 

みんなカメラぶら下げて電車から降りて来ます。

あの辺の家も壊れたいますけど、、、。

 

希望の牧場

 

→「被ばく牛を飼っているところですよね」

 

代表の吉沢正巳さんから話を伺いました。

 

今僕は授業の一環で子供たちに自分の体験を話しています。横須賀でも講演しました。

震度7の地震は今に日本にたくさんあります。

横須賀に津波着たらどうします。

関東学園、神奈川歯科大、進次郎さんは地震の事何か言っていますか。

→「化石賞取って喜んでいます。化石賞が何かしらなかったんです」

オーストラリアは日本に石炭を輸出しています。山から石炭をを採掘してね。

山火事の原因の一つは日本ですよ。

 

インドのムンバイ、フランスなどでも講演をしました。

フランスは80%以上が原発の農業国ですが、原発に何かあったらもう終わりです。

ヨルダンにも原発の計画があるんですよ。日本とロシアが競ってロシアが勝ったんだけど、、、。

ヨルダンには水資源が少ないんですよ。

→「砂漠ですものね」

冷却水は下水処理の水です。足りなくなったら原発はドーンですよ。

シリアやパレスチナの避難民のキャンプも見てきました。

故郷をなくしてなくしたらもう帰れない。

原発の避難民と同じとところがある。

むりやり帰還しろなんて無理がある。

二万数千人磐城に住んでいる。

何にも知らないところに、賠償金をもって、高速道路もただ、健康保険もただ、、、。

磐城でもめるんですよ。磐城でトヨタのレクサスが一番売れるんですよ。

 

→「友達が言っていました。お金もらって毎日お酒飲んで、パチンコ行ってるって」

20キロの圏内の内側の人はお金がでる。親兄弟でいくらもらったかもめるんですよ。

金、金、金、もう金の事しか頭にない。

ここは違うんですよ。

「金にならない牛をなぜ買うんだ、お前は馬鹿かとみんないう」とみんな言う。

→「抵抗のシンボルですね」

ここは外国の人もたくさん来ます。メディアも来ます。

あの3、11の事を忘れないでくださいというメモリアルです。

 

 

 

 

2020年3月30日月曜日旅行二日目

→「 」は私たち三人の誰かの発言です。

ガイドの発言は「 」を外しています。

昨日とうってかわって良いお天気です。

ガイドの方と道の駅で待ち合わせて自動車です。

 

地元の人間の雇用があるわけではないので、農業や漁業の人は困っている。

保証はオーナーだけなので、従業員には補償がない、などの言葉を聞いてとても悲しい気持ちになりました。

相馬太田神社の前を通りました。

小高の町中に柳美里さんが住んでいてカフェをされているという話を伺いました。

津波は常磐線のところまできたそうです。

高校は500人学生がいるけど50人が地元で450人は原町から通っているそうです。

この辺は若い人がいるだけでうれしいとのこと。

学校はほとんどが閉校になる。

住民は自宅に放射能がなくなっても帰ってこれない。

除染は宅地や庭の中をするが、宅地から10M位で山があって、そこからまた放射能がやってくる。

山の除染は技術的に難しく、出来たとしてもお金がかかる。

農家は家の前に耕作地があるのでそこからも放射能がやってくる。

結局ここに帰るということは「放射能と共存するそいうことを意味する」

除染の目標値は今までの基準の20倍、年間20ミリシーベルトです。

 

浪江

 

ここの右が浪江の役場です。浪江には原発のお金がいっぱい降りている、秘密のお金。

人口は2万数千人、原発事故の前に自動車を拡幅するために家は新しいので傷んでないです。道路沿いのお店はラーメン屋、とんかつ屋。居酒屋など、原発で働く人たちが行きます。

3年以上がすぎて1000人くらいが帰還しました。この辺りは夢のマイホームの住宅地でした。空地は解体されたところです。右の家は人が住んでいます。おばあさんが住んでいて、息子さんが帰ってきています。

ここに住んでいる知人の家の線量が高いのは地震で屋根が壊れて、そこに放射能が入ったので線量が高いのです。

でも誰も責任をとらない。

→「無主物とか言われて責任はとらない」

去年まで役場に言うと無料で解体してくれました。

マンションは復活しました。今住宅難です。ここの銀行だけやってますね。富岡にはアパートがいっぱいできています。今毎日4000人が原発で働いています。現場に近い方が良いわけだから。ここは警察以外やっていません。解除になってみんなこっちから通うようになった。

密かに寄付もあり立派な市役所、横須賀市役所より立派です。

 

ここのセブンイレブンは原発に一番近いです。

ここの塀はいわゆる「仮置き場です」ここはほとんど空になっています。

 

ここ浪江消防署です。ここのイオンは朝6時からやっています。

原発労働者がお弁当を買うのです。

ホテルもたくさんできて、公共事業の入札をする人が泊まります。

避難解除されたのは二割の海側です。まもなく浪江小学校です。子供の数はものすごく少ないです。これは土木関係のお金ですね。今は春休み。こちらは復興住宅です。

 

学校を眺めます。浪江には小学校がいくつかあってそれが統合されました。

 

ところが生徒の数は小学校が16人、中学生は2人、先生の方が生徒より多いんです。箱モノはお金でなんとかなるんです。でも人間はどうしようもない。

名前としては何とか小学校があるけど子供はいない。

飯館も遠くから、スクールバスで一時間かけて通わせる。いろんなものが無料です。

 

あちらでごみを燃やしています。

町中で燃やすと目立つわけです。

なので中間貯蔵施設に入れています。予算は300憶くらいですね。

 

左側から津波がさかのぼって来たんです。

左が第一原発の排気塔です。

請戸の浜がこちらです。

家がたくさんありました。

左にあるところに松の苗木が植えてあって防災林を作るんです。そうとう大きな工事になります。

 

請戸の浜

 

ここのお墓が地震でまず倒れて、津波で浮いて捜索の時に動かしたんです。

そのままになっています。

地震と津波で迷ったん避難を迷ってんですが、原発が爆発して戻れなくなるなんて思わないから、みんな避難したんです。

それから入って良いと言われるまでの時間、、、。

遺体が見つかった時は腐乱しているわけですね。ウジ虫が湧いていたり。

二階の部分から餓死した方々のご遺体が見つかりました。みんな避難しているから、助けが来ないんですね。

この墓地は6年くらい誰も入れなかったんです。魂を抜いて、新しい墓地に魂を入れたんです。

ここは宗教的にはがれきなんですね。

お墓は所有者全員の合意がないと手を付けられないんですね。

 

いわゆる堤防を作っているんですね。ここが町でした。ここを左に曲がるところがメインストリートでした。

→「港はやっているんですね」

こちらの漁業は沿岸で漁をするというものです。

津波の時は船に乗って外に出て船を守るんです。

ここは漁港が壊れてしばらくほかの港においていたんです。

東京電力は漁民に対しては非常に優しくて8割まで補償する。

9年も東京電力の賠償金。

福島県からとった魚は買いたたかれる。

次に汚染水を流すなんていっている、40年から50年かかる。また補償に頼るしかない、従業員はそれでは食べていけない。補償金は船主に入っている。かといってやめるにやめられない。事故前は原発を増やすたびに賠償金が入る、船一艘買えるお金。

請戸漁港は原発から6キロなので本当は漁が出来ないので10キロ以上のところに出て漁をする。

 

 

あれが阿武隈山地、本当に除染と思ったらあれも除染しなければいけない。

→「千恵子が見たら悲しむでしょうね」

 

→「仮置き場は警戒が厳重ですね」

 

ガイガーカウンターがものすごい数値でなり始める。

 

小学校が体育館なんですけど下から二枚目までは津波が来たところです。

右から一年生、二年生の教室。あれがエレベーターです。

このオブジェは何千万と係ると思う。

教室から体育館まで濡れないで行けるんです。

こっちが正面玄関です。パネルがはってあります。

早い話が原発のお金で建てたという事ですね。

 

→「避難にどのくらいかかったんですかね」

 

二キロあるので40分くらいですね。

子供たちは田んぼ道を通って豪族の墓があるといわれる大平山に避難。

教師が後ろを見たら船が津波で浮いて大変なことになっていた。

 

慰霊碑の裏には原発事故の事が記されています。

 

芝生には「イノシシの糞に注意」の看板。たくさんありました。

 

→「そこまで水来たんですか?」

そう、あの低くなった裏側に原発が並んでいます。

 

当時近くで泳いだ人によると温かかったそうです。

温排水が来ているくらいだから、放射能も来ている。

請戸の町があって、漁協があって、田んぼでした。

ここ橋を渡ってここ入り江、今堤防工事をしています。

川こっちに流れていますので引き津波の時ですね。

慰霊碑があります。

→「拝んで行きましょう」

 

今年初めて雪が降ったんですよ。

→「そんな寒い日に私たち来たんですね」

 

慰霊碑の碑文(碑は縦書き)

 

 

 平成二十三(西暦2011)年三月十一日午後二時四十六分、福島・宮城・岩手を中心に

最大震度七の地震が発生した。 この地震により家屋は倒壊し、道路は寸断された 。その約四十分後に浪江町沿岸に津波の第一波が到達した。 第二波が襲来した後、さらに高さ15メートルを超す大津波が町を襲った。住民にはこれまで大津波被災の記憶はなく、避難が遅れ大津波に驚愕し、請戸・中浜・両竹・南棚塩の集落はすべてのみ込まれた。

 翌十二日には東京電力福島第一原子力発電所の事故により、住民百八十二名の尊い命が失わ

れた。 私達は、災害は再び必ずやってくることを忘れてはならない。

 ここは太古の昔から人が住み、青い海と白い砂浜を眺望できる所である。この地に、犠牲者の御霊を慰めるとともに、先人が愛した

豊穣の大地と海を慈しみ、浪江町の復興を願い、この碑を建立する。

 平成二十九年三月十一日 建立者 浪江町

 

 二つの球について

 この碑の両側に配置した二つの球は、農民

に恵みを与える太陽と、漁民の指針となる月を

象り、平安で幸福な生活を表現した。

 

 

原発事故の後全国に避難したんですよ。

この辺は特殊な道路だったんですよ。

バイク駄目、自転車駄目、オープンカー駄目、24時間警察官がパトロールしていました。

それがオリンピックで解除された。

東京電力は堤の土地に原発を建てた。大量の冷却水を上にあげるのにお金がかかるというので削ってさげた。

ここで働く人たちはかなり被ばくしている。

ここは非常避難区域を解除されてないんですよ。

双葉駅の周りだけ解除されている。

 

6号線に影響しないように放射性廃棄物の置き場があるんです。

まわりの畑や田んぼに巨大な露天掘りの穴を掘って埋めている、毎日2000台のトラックがここに運んでくる。

 

大熊町

 

ここから大熊町です。

本当は入ったはいけないのですが、ここが正式な入り口なんですが閉まっています。

ここらの駅に至る道も非常に線量が高い。

今4マイクロシーベルトくらいです。年間20ミリシーベルトだから、、、。

→「帰って来いよ。じゃなくて帰って来るなですよね」

 

みんなカメラぶら下げて電車から降りて来ます。

あの辺の家も壊れたいますけど、、、。

 

希望の牧場

 

→「被ばく牛を飼っているところですよね」

 

代表の吉沢正巳さんから話を伺いました。

 

今僕は授業の一環で子供たちに自分の体験を話しています。横須賀でも講演しました。

震度7の地震は今に日本にたくさんあります。

横須賀に津波着たらどうします。

関東学園、神奈川歯科大、進次郎さんは地震の事何か言っていますか。

→「化石賞取って喜んでいます。化石賞が何かしらなかったんです」

オーストラリアは日本に石炭を輸出しています。山から石炭をを採掘してね。

山火事の原因の一つは日本ですよ。

 

インドのムンバイ、フランスなどでも講演をしました。

フランスは80%以上が原発の農業国ですが、原発に何かあったらもう終わりです。

ヨルダンにも原発の計画があるんですよ。日本とロシアが競ってロシアが勝ったんだけど、、、。

ヨルダンには水資源が少ないんですよ。

→「砂漠ですものね」

冷却水は下水処理の水です。足りなくなったら原発はドーンですよ。

シリアやパレスチナの避難民のキャンプも見てきました。

故郷をなくしてなくしたらもう帰れない。

原発の避難民と同じとところがある。

むりやり帰還しろなんて無理がある。

二万数千人磐城に住んでいる。

何にも知らないところに、賠償金をもって、高速道路もただ、健康保険もただ、、、。

磐城でもめるんですよ。磐城でトヨタのレクサスが一番売れるんですよ。

 

→「友達が言っていました。お金もらって毎日お酒飲んで、パチンコ行ってるって」

20キロの圏内の内側の人はお金がでる。親兄弟でいくらもらったかもめるんですよ。

金、金、金、もう金の事しか頭にない。

ここは違うんですよ。

「金にならない牛をなぜ買うんだ、お前は馬鹿かとみんないう」とみんな言う。

→「抵抗のシンボルですね」

ここは外国の人もたくさん来ます。メディアも来ます。

あの3、11の事を忘れないでくださいというメモリアルです。

 

 

 

 

映画「シロウオ~原発立地を断念させた町」上映会のご案内のホームページが出来ました

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